プロジェクトの背景と意図
プロジェクトの背景と意図
中上級レベルのカリキュラムの見直し
ここ20年あまりの間にアメリカでの日本語学習者数は急増し、それに伴って、日本語教育のためのカリキュラム、教材、教員養成システムも急成長を遂げました。しかし、その一方で、日本語学習者の動機、目的、また、日本語教育を取り巻く社会的環境、テクノロジーも常に変わり続け、それに合わせてカリキュラム、教材、教授法を見直さなければならないという必然にも迫られています。
特に、中級以上のプログラムに関しては、初級レベルのインストラクションに比べ、そのゴール設定、教材、教授法という点について、まだまだ模索段階にあるプログラムが多いように思われます。Association of Teachers of Japaneseによって作成されたFramework for Post-basic Japanese Language Curricula (Draft) (2003)もこの点に関して言及しており、中上級のカリキュラムにおいての四技能(話す、書く、聞く、読む)のバランスの取れた育成が課題として取り上げられています。また、学習者のレベルが上がり、できることが増えて行くと共に、限られた時間の中で何を優先させるべきなのか、学生の多様性(それまでに培われた言語能力、バックグラウンド、学習の動機/目的など)にどのように対応して行くべきなのかということも中上級でのカリキュラムづくりにおける難しい問題点と言えるでしょう。さらに、フォーマルなインストラクションの最終段階となるカリキュラムでは、学習者が教室を離れた後、第二言語としての日本語を活用し、社会活動に参加していけるような能力、問題に直面した際にそれに対処するストラテジー、自己学習能力を身に付けるようにしていくためにはどのようにすればいいのか、というのも大きな課題となってくるものと思われます。
参考文献
The Association of Teachers of Japanese (2003). "The Framework for Post-basic Japanese Language Curricula."
言語・社会・文化のつながり ー 社会言語学、応用言語学の視点からの指摘
このような形で、日本語教育の現場からの問題提起が浮上すると同時に、昨今の社会言語学、応用言語学の研究の成果からも、日本語教育に取り入れられている教材、教室活動の中でのやり取りに関しての様々な指摘がなされています(e.g., Kubota (ed.), 2003; Jones and Ono (eds.), forthcoming; Mori, 2002; Ohara, et. al. 2001; Ohta, 2001)。中でも、教科書の中に盛り込まれた「作られた」会話に関しては、その言語使用の不自然さや、日本語話者の地域的、職業的、世代的多様性を軽視しているという点が取り沙汰されるようになってきました。第二言語としての日本語を通じて異文化コミュニケーションに参加していく上で、学習者が自分が生まれ育って来た言語、社会、文化で当たり前とされている規範や考え方と、日本語、日本社会、日本文化でのそれとの違いを理解していくということは非常に重要な課題である一方、画一化、標準化された言語使用例、文化エピソードの紹介は、いわゆる「日本人論」や様々なステレオタイプを助長する結果を導いてしまうことになりかねないという懸念もあります。また、敬語、文体、男性語・女性語など、話者自身の状況や人間関係に関する判断を指し示すこととなる複雑なシステムを持つ日本語の教授において、日本語母語話者の間でも意識の差があり、且つ、常に変化しつつある規範をどのような形で紹介していくべきなのか、というのはなかなか簡単には答えの出せない問題でしょう。
こうした課題への解決案の一つとして、実際の日本語話者による対話のデータを教材、教室活動の中に取り入れていくということが上記の研究者らから提案されています。そうすることによって、作られた会話にはなかなか反映されることのない実際的な言語行動に触れることができ、それを教師も学習者も新鮮な目で見直すことができるのではないかという考えに基づく提案です。また、様々な話者が実際に話す日本語を聞くことによって、言葉の使い方、話し方、また特定の問題に関しての視点の多様性などに触れるチャンスを与えることができるという利点もあります。ともすると、教科書、読解教材の筆者、または教師の視点が「日本人」の視点の代表として、示されてしまうことになりがちな中で、様々な視点に触れる機会を持たせることの必要性、また、ある特定の社会的文化的規範を決まったものとして教師が与えるのではなく、規範自体の解釈の多様性の幅を学習者自身に体験させ、模索させて学ばせることの必要性が訴えられているのです。
このような実際の日本語話者の自然な言語行動、または多様な価値観に触れる機会は、留学、インターンシップ、就職などを通して実際に日本社会での生活を体験することができる学習者にとっては豊富なものかもしれません。しかし、アメリカでの日本語学習ということを考えると、ゲストスピーカーをクラスに招く、会話パートナーを作らせる、メール、チャット、掲示板といったインターネットを通してのコミュニケーションを促すなどいろいろな方策を施しても、限界はあるように思われます。また、実際に日本社会での生活体験を通して、いろいろな日本語話者に触れる機会のある学習者たちも、それをどのように理解していくのか、どのような(一つに限らず、多様な)視点で解釈することができるのか、ということに関して、エキスパートとしての教師、または他の学習者との意見交換を通じて、意識を構築していくことが重要になってくるでしょう。
参考文献
Kubota, R. (Ed.) (2003). "Special issue: Sociocultural issues in teaching Japanese: Critical approaches. Japanese Language and Literature, 37 (1)
Jones, K. and T. Ono (Eds.). Forthcoming. Special issue: Discourse and Pedagogy. Japanese Language and Literature.
Mori, J. (2002). "Task design, plan, and development of talk-in-interaction: A study of a small group activity in a Japanese language classroom." Applied Linguistics, 23 (3), 323-347.
Ohara, Y., Saft,S. and G. Crookes (2001). "Toward a feminist critical pedagogy in a beginning Japanese-as-a-foreign-language class." Japanese Language and Literature, 35, 105-133.
Ohta, A.S. (2001). Second language acquisition processes in the classroom: Learning Japanese. Mahwah, NJ: Lawrence Erlbaum.
このプロジェクトの意図 — 既存の視聴覚教材との違い
上記のような背景を踏まえ、このプロジェクトでは、日本語話者の方々に中上級の日本語のクラスの中で読解教材、ディスカッションのテーマとしてとりあげられることの多いと思われるトピックについて、会話形式、インタビュー形式で話してもらい、それをビデオ録画、デジタル化し、さらに、トピックや言語表現などでカテゴリー分類したものを中上級の日本語教材として取り入れていただけるよう提供することを目的としています。この教材は、既存の視聴覚教材と置き換えられるべきものとして提案しているわけではなく、既存の視聴覚教材の様々の優れた面を生かしつつ、それに何か新しいアプローチを加えて行けないだろうかという姿勢で企画されています。
既存の視聴覚教材として、よく取り入れられているものには下記のようなものが挙げられるでしょう。
- 教科書付随のテープ、CD
- 聴解練習用副教材として出されているテープ、CD
- 日本語学習者用に作成されたビデオ教材
- 劇場映画、アニメ
- テレビのドラマ、ニュース、バラエティー番組、コマーシャル
- インターネットを通じて視聴できるニュース、物語、コマーシャル、他、様々なジャンルのビデオ/オーディオクリップ(一般向け、教材として処理したもの)
- 歌
- 教師、ゲストスピーカー、他の学習者らの実際の発話
これらの既存の視聴覚教材のそれぞれについては、語彙・文型などのコントロールがなされており、それぞれのレベルの学習者に適切なものが選べる、学生の日本語学習に対しての興味、動機を高めるのに役立つ、時事性が反映できる、 文化的背景の紹介に役立つ、等様々な利点が考えられます。
では、このプロジェクトで提供しているデジタルビデオクリップの特徴とは一体どのようなものなのでしょうか。上記の既存教材と対比しながら考えてみたいと思います。
Characteristics of CALPER's "Learning Through Listening" Digital Video Clips.
モノローグではなく、ダイアログである ある程度まとまった長さのニュース、講義などを視聴し、基本的な内容をつかむことができるというのは、ACTFLのProficiency Guidelineの上級レベルの聴解能力の描写でも言及されており、このレベルに向けての聴解練習用副教材として出されているテープ、CDの中にはこのようなタイプの教材を中心としているものも多くあります。しかし、情報を伝えるということを目的として、書かれた原稿を音読する、またはかなり事前にプランをたてた上で話す、というプロセスで作成されたものを視聴するということと、かなり自然に近い形で複数の話者が自発的にターンを取りながら話しているものを視聴するのでは、必要となってくるスキルというのもかなり変わってくることが予想されます。
There are many sites where you can view the ACTFL Proficiency Guidelines . Here is one from SIL International.専門的な内容についての情報伝達を主な目的としているわけではない 上述の問題と関連し一つ言えることは、一般の日本語話者による会話形式、又はインタビュー形式でのインタラクションを録画したこのプロジェクトに出てくる語彙、表現の傾向として、専門的な用語が出てくる割合は比較的少なく、逆に、イディオム、スラング的な表現が出てくる可能性が高いということでしょう。(勿論、これは扱われている分野、トピックにもよりますが。)また、インタラクションの中では、情報の伝達だけでなく、話者の感情や意見などの表現も行われており、その際、あえてポイントをぼやかし、断定的な表現をさけるというようなストラテジーをとっている話者もおり、その微妙な立場の表現をつかみ取るというのは実はかなり高度な能力を要することと言えるかもしれません。
「作られた」会話ではなく、自発的な発話のサンプルである 勿論、インタビュー、会話という形式をとった視聴覚教材というのも色々あります。ただし、教科書付随のCD、テープに出てくる会話にしろ、映画、テレビドラマなどに出てくる会話にしろ、もともとはある特定の筆者により、日常の会話シーンを想像し(また、場合によっては既習の語彙、文型に関しての配慮を加え)、創作された台本をもとに、声優、俳優が演じると言う形で作成されているものです。このような「作られた」会話には、自発的な発話でよくおこる言い直し、不完全な発話、複数の話者のオーバーラップ、といった現象はあまり含まれていません。(才能のある脚本家、演出家、俳優によって作られたドラマの中には、かなり自然さが保たれているものもあることはありますが、やはり、日常の自発的発話とは異なります。)このように、「きれいに整理された」会話 — 創作され、演じられ、スタジオで高度の録音技術をつかって録音された会話—というのは、学習者にとって、聞き取りやすい、わかりやすいという利点はあるものの、彼らが実生活の中で行われている会話を視聴するということとはかなり状況が異なっています。実生活での会話は、既存教材の会話やドラマの会話ほど整然としたものではなく、喧噪(騒音、雑音、バックグラウンドの音楽など)の中で行われることも少なくありません。また、上述の話者ひとりひとりのスタイル、視点ということを考えると、特定の筆者によって創作された会話には、その筆者個人の想像するところの現実しか反映されていないということになるでしょう。
勿論このビデオクリップに表れる会話やインタビューも完全に「自然」なものとは言い切れません。教材作成というプロジェクトの目的を説明し、あるトピックについて話してもらい、それを録画するというプロセスが、発話の自然さに影響しないとはいえないでしょうし、このような方法で集められた発話のサンプルは日常生活における言語行動の極一部のサンプルでしかありません。しかしながら、既存の視聴覚教材に比べれば、より自然に近いものを提供し、教材の幅を広げることには役立てると思われます。
学習者のレベルに合わせたコントロールがされていない 前にも述べたように、今回のインタビュー、会話サンプルの収集の際には協力者の方々に将来教材として使用したいと言う意図は説明してありますが、話し方、語彙、表現等については、普段話しているようにという形でお願いしてあり、どのようなレベルの日本語学習者にわかるようになどという指示は一切していません。30分から1時間に及ぶ一つのインタビュー、又は会話から、1〜5分のクリップを抜き出す際には、中上級の学習者にとってもある程度の内容、なんらかの情報がつかめるであろうという配慮をしましたが、クリップの分類をする際、中級向け、上級向けというような分け方はあえて避けることにしました。同じビデオクリップでも、学習者のレベル、バックグラウンドによって、いろいろな使い方ができるだろうという考えに基づく判断です。(下記のこの教材を使うにあたって考慮すべき点を参照のこと)実際、学習者たちが日本社会で生活する、というような状況を考えれば、いつも彼らのレベルに合わせたコントロールがなされたインプットのみが入ってくるというわけではありません。わからないところがあっても、それに惑わされることなく、自分のレベルでわかることを拾い出してみる、推測してみるというようなストラテジーを養うというような取り組みを早い段階から教室活動に取り入れていくことも必要でしょう。
既存の日本語教材でよく取り扱われているトピックを押さえている 日本語話者によるインタビュー、会話のサンプルの収集の際には、既存の日本語教材で比較的よく取り扱われていると思われるトピック(例:大学生活、ホームステイ、食生活、習慣、ジェンダー、ポピュラーカルチャー、異文化コミュニケーション)を選んで、それについて協力者の方々に話してもらうことにしました。トピック選考の際には、まず、中上級で比較的多くのプログラムが取り入れている教科書を調べ、その数冊に共通して取り扱われているようなトピックを探してみました。また、さらに2004年5月にウィスコンシン大学マディソン校で開催されたこのプロジェクトの初回ワークショップの参加者の先生方にもどのようなトピックについてこのようなビデオクリップ教材があると便利だと思うかを尋ね、その結果を反映して、さらにデータ収集を行いました。このようにしたのは、一つはすでに教室でよく取り上げられているトピックを選ぶことによって、既存のカリキュラムを大幅修正することなく、この教材を取り入れていくことが可能になるのではないかと考えたためです。また、既存の読解教材、タスクとこのビデオクリップを通しての学習を組み合わせ、一つのテーマについてのユニット学習に結びつけていくことができるのではないかという意図もありました。(他の教材・タスクと関連させることはできないか?を参照のこと)
1〜5分という短い教材である 上記の点と関連し、既存のカリキュラムの中への取り入れがしやすいよう約1〜5分という比較的短いビデオクリップを提供することにしました。短いなりにも、一つ一つのクリップはそれなりに話が完結しており、その中からある話題、表現、文型、スタイル等を取り出して、学習、ディスカッションにもっていくことができます。(下記のこの教材を使うにあたって考慮すべき点を参照のこと)また、それまで教材としてかなり手を加え創作、スタジオ録音された教材になれてきた学習者にとっては、このような自発的な発話に基づく教材は1、2分という長さでもかなり聞き応えがあるはずです。
学習者自身が直接日本語話者と話をするというタスクと関連させられる このプロジェクトについて学会発表を行った際、聴衆の一人から、最終的にはこのように、他の話者たちの会話を「立ち聞き」するのではなく、実際に相手と話しながら、わからないときは聞き返しながら会話をすすめると言う方が実際的なのではないかという指摘がありました。この点は、実はウィスコンシン大学マディソン校でこのビデオクリップ教材を試験的に使ってみたときに、学生からのコメントの中にもあがっていたことです。確かに、学習者自身が他の日本語話者と話をするというのは、いろいろな面でそこから学ぶことが多いでしょう。しかし、物理的、時間的、経済的に常に全員にそのような機会を提供し続けられるわけではないというのが現状です。さらに、このようなビデオクリップ教材をそのような実際の日本語話者との会話の事前、または事後の作業として活用することもできます。 前述の試験段階での学生からの声の中には、このビデオクリップ教材を通じて、日本語話者の自然な話し方に慣れることができ、彼らと話すときの緊張感が少なくなったとか、ビデオクリップでは、何度も聞き直しができるので、一度聞いただけではわからなかったであろう日本語話者の言っていることをもっと深く理解することができたという指摘もありました。その他、日本人の留学体験者がアメリカでの大学生活を振り返ってアメリカ人学生の生活ぶりについて話しているクリップを視聴したクラスでは、日本人たちが自分達と直接話すときには言わないような「本音」を聞くことができておもしろかったというようなコメントもありました。さらに、学習者が日本語話者と直接話す際には、相手も学習者の日本語力に合わせて日本語の発話をかなり調整するというような場合もあります。このような現象は学習者にとってプラスの面もあるものの、場合によってはその時点の自分の理解能力を引き上げるにはあまり有効に作用しないということも考えられます。また、一対一の会話の場合にはよくても、複数の参加者のいる会話の場合は、自分より上級の、又は日本語を母語とする話者同士の間で話がはずみ、自分一人が取り残されてしまうというようなこともあり得ます。このような場面にも対応し、会話に参加していけるようにするには、前述のような、自分のレベルでわかることを拾い出してみる、推測してみるというようなストラテジーを身につけていくことが必要でしょうし、そのために、このビデオクリップ教材を役立てることができるのではないかと思っております。
このセクションでは、本デジタルビデオクリップ教材開発プロジェクトの背景と意図を簡単に説明させていただきました。次のセクションでは、実際にビデオクリップを教材として取り入れる際にどのようなことを考慮すべきか、具体的、実践的な注意事項について考えていきたいと思います。


